言わねばならんこと。
『おやすみプンプン』は一年前に友人から勧められた漫画だった。その時、大学の授業では、デジタル漫画の表現技法の一例として取り上げられていた。友人に一巻を借りて読ませて貰った僕は、新宿、池袋の大きな本屋に向かい、全巻かき集めた。
その漫画は僕にかなりのインパクトを与えた。奇抜な表現とリアルな人間ドラマ。それから僕は浅野いにおの過去作も集めた。勧めてくれた友人とは「浅野いにおの世界展」に行った。僕の方から誘った。友人はサブカルクソ女がいっぱいいるよと言っていた。確かに個性的を個性だと思ってそうな人が見受けられた。
僕は、今年の9月末、そんな友人にとあるリンクを送った。
https://www.ichika.work/entry/2019/07/26/230937
それは、いちかさんの『おやすみプンプン』の考察の記事だった。それに浅野いにおが読んでリツイートしたのだ。
僕にとってとても高まる出来事だった。でも、友人が面白いと返信してきた内容は、「サブカルクソ女に喧嘩を売っている」ということだった。多分にギャグで返してきた言葉だろう。でも違う。そうじゃない。それじゃあ、君もサブカルクソ女と変わらんではないか。僕が待っていた言葉は違う。僕は。
僕の浅野いにおのイメージは「漫画を呪っている、自分自身を呪っている」という感じだ。
・取り巻く環境
今もなお、『おやすみプンプン』は鬱漫画。トラウマと評される。
2019年7月。浅野いにおがTwitterでマンガワンで『おやすみプンプン』が読めます、心温まる異世界転生ものです。とツイート。それに対し、被害者を増やし続ける男だとか、くそつまらん返信があって。浅野いにおはこういう連中に漫画描いていかにゃーならんのかと僕を嘆かわしくさせた。浅野いにお自身もこういうの嫌だろうなと。
https://twitter.com/asano_inio/status/1147773790132195328?s=21
2011年11月。漫画家・江口寿史が「背景が写真や映画そのもののような漫画は死ぬほどうんざりだ」「大友克洋の背景は写真的映画的であったが、そのものではない」「俺が言っているのは『アイアムヒーロー』や『おやすみプンプン』のような背景。あれが漫画だと言うのなら漫画の魅力はこの先どんどんなくなっていくだろう」と、ツイート。そんな彼は内容は読まず、絵に関してだけの感想。と批判した。それに対し、浅野いにおは「久々に血の毛が引くような出来事。今更、絵柄に文句を言われるとは思わなかった」「僕は漫画らしい表現から遠ざかろうとしていたわけで、漫画の魅力が無いと言われるのは仕方ないのかもしれない。」とツイートした。
https://togetter.com/li/220910
浅野いにおは2000年初頭にはデジタルに移行し、写真を加工した背景作りをしていた。
の動画の3:05あたり。「『ソラニン』は舞台を決めて東京に住む20代みたいな感じで」「写真を使ったりするのは手抜きなんじゃないかって雰囲気があったりして」と語っている。
僕はこういった雰囲気を黙らすために作風に試行錯誤してきたのかなと思う。なのに10年経ってもズレた批判されてしまった。
虚構ではなく現実を描こうとした。
2015年、『浦沢直樹の漫勉』では、デデデの作画風景が放送された。写真を加工し、アナログで描き込んでいくというかなりの労力のある作画風景だった。また、浦沢直樹の指摘通り、『デデデデ』は『おやすみプンプン』よりアナログの比重が大きくなっていた。
・彼自身
浅野いにおが漫画家を描いた作品は、短編集「世界の終わりと夜明け前」の『東京』、『おやすみプンプン』『零落』の三作品だ。たぶん。
『東京』の主人公の青年誌の若い漫画家・晴(氏名は不明)、『おやすみプンプン』の南条幸が尊敬する漫画家で『零落』の主人公の青年誌の中年の漫画家・深澤薫。
この二人の登場人物は名前が違うが、同一人物と見て差し支え無いだろう。その理由は、『東京』の晴は取材に対して「僕には決定的に足りない何かがある」と答えており、『おやすみプンプン』に登場する編集部の深澤薫のインタビュー記事にも同じように書いてあるからだ。風貌も似ている。晴、深澤薫は浅野いにお自身である(浅野いにおに、先生などいう敬称をつけないのは聖徳太子を呼び捨てにするのと同じ理由)。『零落』での深澤が描いた漫画「おはようサンセット」は全巻13巻で『おやすみプンプン』とリンクするし、浅野いにお自身の風貌ともリンクする。
そして晴や深澤薫の評価は、一部の若者に熱狂的なファンがいる。晴は作品が浅く感傷的。編集者には面白いとは言って貰えない。深澤は、単行本はそこそこで雑誌を牽引する程の作家ではない、サブカル風味。編集者やアシスタントによく思われていないようです。
作品の主人公イコール作者とは100%言えませんが、主人公とのリンクが多い分、浅野いにお自身なのでは。
だとすれば、こんなにも自虐的に自分を描いている。
浅野いにおは、南条に代弁させた「感動とか泣きとかのその場の甘やかしではなくて誰かの人生に影響させたい。現実を忘れさせる漫画ではなくて、現実と戦う漫画を描きたい。」その漫画が『おやすみプンプン』。でも現実は、鬱漫画などと言われ、『零落』のように作家と読者の大きな溝が存在する。その溝を描いた『零落』ですら、ハッピーエンドど誤認されてしまう。
しかし、『零落』に新たなエンドが起きる。それも現実で。
2019年。
浅野いにおが望んでいた「誰かの人生に影響させたい」の誰かはいちかさんだった。『零落』で現れた深澤の描いた媚びた漫画に気付かず今まで通り感動してしまう女性のファン。現実で浅野いにおはそのキャラクターのアンチテーゼの存在に出会えた。
なんでもないこの日は、勘違いされてきた『おやすみプンプン』が鬱漫画のレッテルから解放された日になったのだ。
僕はこんなことを思ってしまった。こじつけではないと願う。『おやすみプンプン』を教えてくれた友人に言いたかったのは、とある漫画家が、作品が報われる瞬間を目撃できたということだった。
美しい出来事だった。この文章を書くのを悩んだけど書きました。不快だったら、ごめんなさい。でも言わねばと思いました。
ありがとうございました。
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【作者公認】《おやすみプンプン考察》おやすみプンプンにおける「黒点」とは何だったのか【浅野いにお】(いちかさんのブログより)
https://www.ichika.work/entry/2019/07/26/230937