金のバロット

バロットとは、東南アジアを中心に食される孵化寸前のアヒルの卵を茹でたもの。

M-1のぺこぱについて思うこと。

『事実など存在しない。あるのは解釈だけだ。』ニーチェ

 

2019年この年最後のサプライズは紛れもなくぺこぱであろう。M-1グランプリは言わずと知れた漫才の祭典。決勝に進み、テレビでその姿を放映されれば一躍時の人だ。優勝争いをしたコンビの中にぺこぱはいた。彼らは若手と言えるほど若くなく、30代前半のおじさんたち。去年優勝した霜降り明星などの20代半ばの芸人世代のお笑い第7世代が最近テレビで台頭しているなか、彼らに遅れをとっていた。

 

 

僕がぺこぱを目撃したのは、4年前のこと。NHKの「笑けずり」という番組だった。この番組は数人の無名の若手芸人が富士山の麓で合宿を行い、そこへM-1グランプリを優勝した先輩芸人(中川家笑い飯)などが講師として漫才の授業をし課題を出し、若手芸人がネタを作り披露し、成績の悪い者から脱落していき残った者が地上波のNHKの番組の出演権が得られるというもの。

その番組には、最近活躍しているひょっこりはんやAマッソも出演していた。

僕の記憶の中では、ぺこぱは松陰寺が奇抜なメイクと盛ったヘアスタイルに着物、ローラースケートで舞台を横断するということをしていた。面白いとは思わなかった。ただそれだけだった。名前も覚えていなかった。

 

そんなぺこぱをM-1で観たときの衝撃は計り知れない。彼らの漫才は平凡な見た目のシュウペイがボケて、メイクした盛ったヘアスタイルの松陰寺がつっこまずにそのボケを独特の言い回しで全肯定するといったスタイル。彼らのお笑いは、叩くこともなく、容姿や個性を揶揄することもない。既存のコント漫才のボケを全肯定する。さながら、めちゃくちゃ幸せに育ったジョーカー。

 

笑うという行為は、ある種の暴力性が秘められている。爆笑問題太田光が言うように、ドッキリなどで驚いたり、何かに失敗したりする人間を見たら面白いし笑ってしまう。些細なことで失敗する子供を見れば微笑ましくなる。オタキング岡田斗司夫は『ジョーカー』の解説動画内で、笑いは暴力性の裏返しと話した。まさにそうだと僕は思う。

 

僕は面白ければ何をしたっていいと思っている。ヘイトもブラックな内容も下ネタも笑うという共感が得られれば許されると思っている。今だってテレビは、人の容姿や個性を揶揄し笑いを取るといった行為がまかり通っているし、危険な行為だ。危険だからこそ面白い。不快ならばハラスメントだ。そこを避けたお笑いは、腹から笑えるものでもない。

ひょっこりはんのネタはポップだし子供がマネする。大人が笑えるものではない。Aマッソが大坂なおみの容姿に対しヘイト発言したのは、面白いと思ってのことだ。尖ったAマッソは大衆ウケも気にしないため、危険なお笑いをしていくのだろう。ゴールデンで子供も観る番組でそれは許されない。

 

 ぺこぱは、近年の従来のそういった危険なお笑いに新たな答えを出した。優しいお笑い。彼らのお笑いは流行るし、流行ってほしい。