金のバロット

バロットとは、東南アジアを中心に食される孵化寸前のアヒルの卵を茹でたもの。

自己責任論にケリをつけたい。

夢を追い大変な状態でも自己責任。貧困に喘ぐのも自己責任。

それは正論かもしれないが、果たして正論は人を救うのか。正しさだけで救えるのなら悪なんていない。誰だって失敗するのにそれに対する救済はないのか。

 

鹿は生まれてすぐに立ち上がり草原を駆け巡ります。もちろん、人間は違います。人間は進化により脳が頭が肥大化したことで母親の狭い産道を通るため、成長しきらずに未熟な状態で生まれてきます。未熟なため、他の生物より本能と呼ばれる部分が発達せず、生まれてから社会性を学びます。進化により母親は一人で子供を生むのは困難で他人の手を借りるようになりました。そして、親や周りの大人に赤子の善悪は委ねられます。かつては子どもは 3世代の家庭で育てられていました。しかし現在では核家族が一般的です。善悪を教える母数が少ないのです。

 

 

黒子のバスケ脅迫事件の犯人の言葉を読みました。それに対するリプも見ました。「ただの妬み」の一言で彼を片付けられるのなら、貴方は幸せなのでしょう。でも、そんな言葉より犯人の言葉の方が血が通っているように見えた。

僕は犯人を擁護するつもりはないです。黒子のバスケの作者や上智大学、世間が被害者で彼は加害者です。でも、僕らは加害者を悪を救うことは出来ないのだろうか。

この事件にも自己責任論が登場するのです。

 

黒子のバスケの作者を標的にした理由は、バスケ漫画であり、BL的要素があり、作者の新宿出身の上智大学中退という学歴の三つの条件にとても憧れていたから。「夢を持って努力できた普通の人たち」が羨ましかったと語ります。

彼にとって人生で熱中した唯一のものはこの事件。捕まって檻の中の方が居心地が良い。話し相手がいる。劣等感を感じさせる勝ち組はいない。三食バランスの良い食事が取れる。イジメがあったとて、かつて小学生時代の両親や教師より今日の刑務官の方がきちんと対応してくれるだろう。そして、死にたいと。

犯人は「生けるしかばね」「負け犬」「無敵の人」と自称しました。自分の人生に関心がない、親の保護もなく自立もない、楽しいという感情がない、ネガティヴ。つまり、親ガチャに恵まれなかった。

そして事件について、親ガチャでハズレのなかった人々から、「努力は報われるのだから、努力不足である本人のせいだ」という意見をぶつけられたそうです。努力信者に嫌悪感を抱いた。彼曰く、「負け犬」には四種類あり、「努力した人」「努力しなかった人」「努力できなかった人」「努力という発想がなかった人」。自己分析によると、彼は努力するという発想すらなかった、自分には可能性がないと思う人「埒外の民」だという。

この先、日本社会は自分のような勝ち組の足を引っ張る「無敵の人」と対峙せねばならなくなると。

 

彼は出会えなかった。救ってくれるものに。両親に、その他の大人に、友人に、恋人に、夢に、漫画などの作品に。個人的に漫画家になれよと思う。

 

 

近年。

元農水次官の父親が引きこもりのDV息子を殺した事件。父親は自己責任を果たした。

 

相模原障害者施設での虐殺。犯人は自己責任が果たせない人間(障害者)は人間ではないと事件を起こした。

 

 

僕は個人的に自己責任論が流行っているなと感じる。自己責任が好きな人へ。集団に属せば、自分が悪くないのに他人の失敗を被ることがあるはずだ。上司のせいで、家族のせいで、全く見知らぬ人のせいで、酷い目に遭う。貴方は理不尽を知っている。

しかし、民主主義社会で競争社会の現代。男性は生まれながらにして、外で働き競争に参加させられる宿命だ。だから自殺するのは男性の方が多い。しかし、これからは女性も外へ出る。リベラル化しつつある社会では、選択肢が増える。つまり、もっと自己責任を求められる。

 

大人は更生しない。思春期過ぎた人間が心を入れ替えられるわけない。悪は後天的な本能だから。

過ちを犯す前に救えなかったのだろうか。救う手立てはなかったのか。自己責任で簡単に片付けられてしまう貴方の心は豊かなのだろうか。僕は社会を憂うことしか出来ない。