1997年 - 2021年6月
これまでのあらすじ
1997年、埼玉の田舎に生まれた僕は、内弁慶で酒を飲めば母の悪口を言い家庭において放任的な父、母と敵対関係にあり性格の悪い認知症の祖母(父の母)、家事が出来ず読解力が無く事実を歪曲しがちな母、拘りが強く融通の効かない兄、出来が悪く癇癪がちな弟という環境で育つ。そんな環境で育ったためか、”他人に悪口を言っても良い”と誤認した価値観が育まれ、中学時代には友人を失い孤独に苛まれながらも、創作に活路を自分の居場所を見出した。大学を卒業し就職するも、10年間人との交流をして来なかった僕はどうしても社会に馴染めず仕事を辞めた。それでも人とは関わって生きていきたいと思った僕は、お笑い好きでもあったのもあり、2021年4月末にお笑い芸人の事務所の養成所に入学したのだった。
コロナ渦及び緊急事態宣言下であり、授業が始まるもリモートであるがため、自覚が湧かなかった。そして、相方探しの会 with zoomがあった。一年先輩の芸人が取り仕切り、大喜利などをするのだ。それで見た目で目立つ者、大喜利の上手い者にスポットライトが当たる。学校生活の中での光景と対して変わらんかった。400人の大所帯では僕は目立てない。もう駄目だと思いSNSで探した。人見知りながら自分からコンタクトを取った。漫才やらコントやらネタは作っていた。それらを提示する。やりたいことは明確にあった。5月に相方とコンビを組んでいるが、僕的には上手くいってない。
話は変わるが、気づいたことがある。自分についてだ。今年の2月まで量販店のケータイコーナーで働いていた頃、どうしても人間関係が分からないのだった。上司は僕を渾名で呼び肩を叩くのだ。どうやら彼らは、コミニケーションと馴れ馴れしいを誤認しているのだ。1歳下のバイトの大学4年生がいて、去年の年末でバイトを辞めるとのことだったが、今年の2月頃に金が無いからと店に来た。すると、僕は彼にめちゃくちゃフレンドリーに接することが出来た。それにはその子と食堂で一緒に食べる機会があり、軽く悪口のようなもので盛り上がったという背景があった。僕はどうやら、悪口を一緒に言い合った相手じゃないと仲良くなれないらしい。
最近は、「坂本小見山」や「ゆる言語学ラジオ」などのYouTubeチャンネルにハマっている。どうやらこの世には”言語オタク”なる者が存在している。彼らは日本語の発音の歴史や構造、方言などを解説してくれる。
例えば、沖縄語と日本語は日琉祖語に分類され、元々は同じ言語だったが古墳時代頃に分岐した。英語とドイツ語もその頃分岐したという。英語はバイキングの時代までは、スカンディナヴィア半島との言語と通じたという。そこで方言と言語の違いは何かという問題が起きる。ポルトガル語とスペイン語はほぼ同じだが、違う言語または姉妹言語されている。沖縄語は沖縄弁とも言われ日本語の方言の一部とされている(注:アイヌ語は1300年頃に移住してきたオホーツク人の言語の流れを組むため日琉祖語には含まれない)。
この違いは何か。それはイデオロギーである。日本は単一民族という価値観から明治以降、沖縄では沖縄語が排除され、戦後沖縄語を話せる若者は皆無であり、ウチナーヤマトグチという異様な方言が生まれた。津軽弁も東北弁も関東弁も関西弁も薩摩弁もかなりの差異があり通じないこともあるが同じ言語だと言う。それほどまでに言語と方言には明確な定義はないのだ。
半年くらいネットの両翼の政治界隈と反りが合わず離れていたが、結局そこに辿り着く。僕は個人的に日本は多民族国家だと思う。ヤマト王権ないし皇室の歴史や伝統、文化を尊重できる様々な移民たちの集合体が日本人のハズ。日本神話は極めて男女平等かつ、江戸時代の春画で描かれる男女の見た目にはほとんど性差はなく、同性愛は美しいものとされていた。現在、右派は明治維新後の悪しき前時代の西洋思想を取り入れた日本、左派は最近の西洋を引きずっている。どちらも誤りだ。
数年前に僕は押見修造の漫画に出会ってからは地元の言葉をちゃんと話せるようになりたいと思うようになった。「血の轍」には上州弁(群馬弁)が多く登場する。押見修造の故郷と僕の地元は比較的距離が近く方言も似ている。僕は彼の漫画を読んだ時、生まれて初めて母語というもの、拠り所を感じたのだ。僕は地元を愛している。クソ野郎な僕が虐められずに済んだのは不幸中の幸いである。他の土地で生まれていたらと思うと恐ろしい。
なんだかんだずっと僕は自分とは何かというアンデンティーを探しているのだと思う。